宇流冨志禰神社歴史(由緒)

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 由緒として、当社は天正伊賀の乱(1580年)で、社殿はもちろんの事、宝物や古文書など、すべて焼き討ちにあい消失された。

 したがって、記録的なものは残されていないが、本殿の境内地に元久2年丑(1205年)の銘が入っている石燈篭があり、元和2年12月20日の棟札があり、この年に再建されたものと思われる。
崇神天皇の時、「倭姫世紀・神宮後鎮座記」に伊賀陰志守宮二年奉斎とあり、これによって当社にも倭姫の巡行があったことが記されている。

 また、「三代実録」によれば、清和天皇、貞観15年(873年)9月27日に宇奈根神、従五位上とあり、その後徐々に位を上げ、円融天皇、永徳元年辛酉2月24日(1387年)従一位を授かる。

天武天皇のとき、圭田42束、四箇所の神田をもって祭祀し放正会を行われ、官幣の奉幣を受けること11回に及ぶ。

また後に、伊賀の領主である筒井定次の重臣の松倉豊後守勝重が名張に着任し、新領を寄進され、また寛永13年に藤堂宮内少輔高吉により更に神領を寄進された。

 その後、祭祀には乗馬が出され、累代尊崇の社のして以来、名張の氏神として崇拝され現在に至っている。

当神社は延喜式内で、伊賀二十五社の内の一社であり、明治14年11月に県社に認定される。